佐渡水難実記(抜粋)
|
明治30年(1897年)に全島的な大水害が発生した。佐渡の僧侶・本莊了寛氏は「佐渡水難実記」にて当時の様子を詳しく記している。ここに、吾潟周辺についての記載を原文のまま紹介する。旧かな使い・旧名称のため読みにくいと思い翻訳を試みたが難しくて断念した。
全文を見たい方は《こちら「
佐渡水難実記」》
【122~123ページ】
121ページから・・・
し、下て元羽黑の西源賀澤山及び中の河內等非常の痛みなりき。吉井村大字吉井本郷の迎町彌五郎は、吉井川東を流れ河內川と云ふ小流西を流れ、二川相合する中間にして、殊に斯る出水の折柄なれば、家内一同取片付けに餘念なかりしに、いつしか逃げ出でん樣もなき有樣となり、救ひを呼べども誰一人來る者なく、止むを得ず納屋に繫ぎし牛を土藏へ引き込み家族は其二階に潜み居りしと云ふ、又地神橋の際に、脇野久右衞門と云ふあり、誠に小さき板屋なるに浸水床上三尺に及び、迚も流失は免がれざる者と覺悟せしに、上流所々の破壞にて其難を免がれたり。吉井村大字大和同日十二時頃乎、同じ吉井川筋にて縣道より南なる南京關と云ふ堤防二十五間東へ切れ、之と前後して與三次畔七八間西へ切れ、新川近くにて高橋畔が同く西へ三十間程切れたり是はかの島の東手より押來る水の影響なりき、是より先石塚龜藏、北見愛藏、佐々木常吉、中野今吉、加藤松藏の數人、最寄りなる字コエタ關と云ふ處に居たりしが、思はずも右の破堤にて一面の水となりしより、各自眞裸になり、互に手とり足とりして漸く二百間許りの所を泳ぎ、武右衞門下へつきたり、藤井次郞助の嫁と石川孫助の娘とば、沖の田地に出でゝ藁抔を當てゝ浸水を防ぎをりしに、迚も叶はざるより、引き返さんと舟津橋まで來るや、前記の破堤にて途方を失ひ、高畔と三いへる高所に三四時間も立ちすくみしが、〓內より筏を組み來り之にて漸く助けたりと云ふ、船津橋より二三丁下にて字土面と云へる堤防は、當日の夕方引水の爲めに五十問程南へ切れたり。吉井村大字吉井町大聖院前の小川より溢るゝ水の爲め、傍らなる床屋間善五郞は裏手の敷地大に決壞し垣根も傾き、僅かに類覆を免れし有樣、町內は一圓川となり一時向ふ手前の往來さへ出來ざる程なりき(發端の條參照)加茂歌代村本書の發端に記したる如く、七日の午前十時頃、〓內字才之神の溜井、破堤せしより十二坂の崩壊となり、其他戶城川の上字片貝袋と云ふ五六町步の田地は、吐き出されたる土砂にて全く埋まれり、加茂川(貝喰川とも云ひ一里上字手端と云ふ澤より發す)は非常の出水にて字大河內にて、沿岸三四町步の田地を流し、中の河內と云ふ澤合は殊に被害甚だしく、極樂寺の庫裡抔は已に流失せん許り、前手の田地は大木、大石イヤガ上に堆積せる樣子は、目も當てられず、此澤合十町步の田地は一圓河原となれり、下りて關根畔は二十間南へ切れ、鬼越畔は三ヶ所同時に東へ切れ、其爲め本川は橫に瀧本袋と云ふ田地へ氾濫し、遂に縣道を乘り越し、湖上まで一面の水となり字福浦とて兩津につゞける人家も、浸水甚だしく、湊分署より警部巡査先づ此へ出張して警戒を加へし程なりしとぞ、尙中の河内の被害は相川より兩津に至る間、一等なりし乎に思はれたり。
【124~125ページ】
兩津七日午後一時頃より、加茂湖の水量大に增加し、裏町通り即ち湖邊の敷地は、二三十間も浸水し、夷開拓最寄は最も困難を極めたり、又役場を新築せんと、兩津橋の際に築きたる敷地は追々決壞し、其向ひなる湊分署は浸水床上に及べり、是より先き分署は町內より人足を出ださしめて、川口(兩津橋の下より、湖水の海に注ぐ所)を切り開かしめたり、是等の故にや四時頃より稍減水の模樣となりしも、一時は非常の騷なりき、當時倉田警部の談に湖水は平時より凡五尺を增したりとぞ。
潟上組の內、宇潟上の被害は多く湖邊の崩壞にあり、舊長禪坂(挑戰坂とも云ふ)の側らにて佐藤重助の所有なる、竹藪の崩れを第一として、湖鏡庵の境內のみにても十二ヶ所崩壞し、有名の故月印師の隱居屋も庭先きより一方の竹藪まで殘らず崩れ、其下の田地四反歩を埋め、其他天王下等こヾかしこ崩れ、盛りには地鳴りをなし、地震の如くなりしとぞ、亦天王田川は、源を田野澤の論山むかひまちより發し、經田を經て湯の澤に到り、歌瀧川を併せて向町を貫流して加茂湖に入る、此川の出水非,12常にて、上湯の澤より湖水迄一面の水となり、字向町とて十四戶の內浸水床上四五尺に及びしもの五軒、外に關口幸内、關口桂太郞、菊地松造、菊地與八、菊地東作殊に幸作は、川筋西へ回る角なるより一入困難を極め、家財を土藏へ運び家族は其二階に潜み、家も流失せん許りなりしと云ふ、縣道も十時頃より全く往來杜絕せしが、其前の事にや木下六三郞(大工にて六十才)は何れかにて酒を飮み、十二時頃舌の根も廻らざる程に醉ふて新長禪坂の降り口なる茶屋の前に來り、かゝる水にも構はず向町の方へ行くと云ふより、此に居合せたる忰勘六及び十二三人の人々は、何れもそは危險なりとて樣々押し留めしも聞き入れず、午後一時頃喧嘩同然にして遂に立ち去るより、人々は死神が附きしに相違なし、最早構はずとて止むなく傍觀し居たるに、六三郎は夏の事とて、一枚のシヤツに簑を着、笠を被りしまゝ段々漕ぎかけしが、茶屋より十間程隔てし靴石(幟等の臺石)のあたりへ行くと水は腰切りとなり、夫より二三尺行くと忽ち乳切りとなれり、夫にても引き返す樣子なきより中山喜三郞なる者、打すてをけずとて鳶口片手に、靴石のあたり迄驅つけ後の方より鳶口をなけ掛くる途端、六三郞はごろりと橫になり、それきりにて形は見えざりしも、二間程も流るると思ふ間は、兩度迄手を水上に出していと苦しげに振りしと云ふ、之を見るより中山喜三郞始め石野玄貞、山岸由次郎は勘六と共に、湖鏡庵下へ回り、水中へ飛び込み四五間も泳き探せども何分漫々たる水にてどこと云ふ方角も分らざるより、空く引戾したり、其翌日午前九時頃湖邊の葦の中に死骸は笠被りし儘にて打伏し居たりしとぞ、アヽあたら命を斯くツマラヌ事にて捨てしとは、うたてけれ、飮酒家は宜しく注意すべき事なり。
【126~127ページ】
因に云ふ天王田川は、向町高橋より屈折して、關口以下五軒の屋敷を抱き迂回せしよりいつも水のはけあしく、殊に三十年には前記の困難を受けしより、土地の有志は河身瀨替工事を企て、則ち明治三十四年十月起工し翌年二月竣工せり、從來百三十間の所百間に縮まり、其後數回の洪水ありしも從來の如き被害はなきに至りしと云ふ。新穂村大字瓜生屋は國府川水源の元とも云ふべき瓜生屋川(新穂川とも云ふ)ありて、水源は前濱豊岡に越へるトネ下より發する黑瀧川と國見山の南手より發する白瀧川とを合せて、瓜生屋川となり字二ノ瀨と云ふ處に至るや、歌にも二の瀨川原の一本松よ水にせかれて獨りをるとあるいと枝振りよき一本の松、川中の岩にあり、周り五尺餘ありて一の枝迄は凡二三間もあらん乎、然に七日の出水盛りにはこれ迄水は達せしとぞ、此道上に三軒の家あり、下手を本間六左衞門と云ふ水は遂に此屋敷へ乘り越し眞一文字に家の半ば(勝手の方)を擁ぎ取りし如くに、後の天神股川へ押し流したり、天神股川はブスガ平より發して、六左衞門の後にて本川に合す。本川は之より宇八王寺を過ぎ大字井内及び瓜生屋の地先きを流る、其間の天神股橋小山橋等葢く落ち遂に閻魔堂畔の破堤河原町の被害となれり。河原町は新穗、上町につゞき瓜生屋橋を渡り、川の北手に傍へる十七八の人家を云ふ、同日十時頃より追々の浸水に老人小兒は大抵善光寺の方面へ逃がしたるが、逃げ後れたる人々の內、後藤六三郞は曾て負傷し歩行出來ざるより伜伊六も之を救ひ出す由なく、是非なく家の梁に結びつけ自分も傍らに潜み居たりと云ふ、又橋際に本間紋平と云ふあり、板屋にて二間に三間位ひの家なるが、夫は用ありて兩津へ赴き不在なりしより、女房ヤノは一旦母と共に逃げいでしも佛樣を忘れたりとて立戾り佛檀より之を取り出すや、早や床上五六尺も浸水し如何ともなし難きより、二才の小兒と米とを少々脊負ひしまゝ、片手に佛樣あれば片手にて中柱に取りつき頸迄の水中に立つ事凡一時間、其內前の橋の流るゝや忽ち水は一尺程減じ其後漸々減じたるより、隣の本間吉助へたどりつきしとぞ此頃にや五六本の大木流れ來て丁度闇魔堂畔の下に橫たはりしより、水は此に湛ると見えしが忽ち五六十間堤防より往來を破壞し、沛然として長畝沖へ押し出したり、故に家屋土藏の流失等はなきも、納屋木小屋等は大抵滿足のものなく、殊に破堤の場所は大木、大石、縱橫狼藉其荒れはてたる有樣は國中筋にて多く見ざるところなり。新穗村大字新穂町は豫て記したる如く、瓜生屋川北手を流るゝが、大野川は岩首越への谷合ひよ第八相川西濱及び國仲地方瓜生屋川北手を流るゝが、大野川は岩首越への谷合ひよ
・・・128ページに続く