吾潟 吾潟の歴史・史跡
T O P 吾潟の歴史 吾潟の自然 吾潟の芸能/社寺 吾潟の産業 お問い合わせ
●佐渡の成り立ち ●吾潟の歴史年表 ●吾潟の遺跡・史跡 ●加茂湖伝説
●吾潟5人組

佐渡島は、300万年前に海底が隆起し始め12万年前に大佐渡山地と小佐渡山地が現れた。国仲平野はまだ海の底であった。その後も隆起が続き中央部も徐々に陸地化するとともに両山地からの土砂が流れ込み2000年前に国仲平野が形成された。佐渡島は今でも隆起が続いており、1802年の小木地震では2メートルの隆起があった。加茂湖周辺が陸地化したのは最後の最後で、その湖畔にある吾潟に人が住めるようになったのも弥生時代晩期かそれ以降であろう。「市詩」にも「今より水位が10メートルも高く、田ノ浦や品ノ浦の入り込んだ沢のだいぶ奥まで潟の水が浸入していた」とある。また「弥生時代や古墳時代の吾潟については、これを語る資料が全くという程ない」とは残念であり、吾潟の歴史は平安時代の「牛尾神社」創建から始まる。
ちなみに、「佐渡」の地名が日本史に最初に登場するのは日本創生を記した「古事記」であり、国生み神話に大八島の7番目として登場する。 佐渡の由来は「狭門(さど)」説が有望で、大佐渡と小佐渡が分かれていた頃にその間の海を指したという。もしかしたら、加茂湖と両津湾の隔てる砂州(さす)を門と指したかも?あるいは両津湾から真野湾に通り抜けるときに両山地が門の様に見えたか?
佐渡は古くから流刑の地に定められ、著名人としては万葉歌人の穂積老順徳上皇日蓮聖人世阿弥などが佐渡に流されてきて、島内での生活は自由であったため佐渡各地の文化を大きく発展させた。ちなみに、真言宗系列の寺だけでも空海ゆかりの四国にある八十八ヶ所霊場から土砂を分けてもらった由緒正しい佐渡八十八ヶ所霊場があるほどに、島内にはお寺が多く存在するのも日蓮に深く関係するところだろう。新潟県で唯一の五重塔が妙宣寺である。神社や能舞台も島内に多く存在する(日本全国の能舞台の1/3が佐渡にある)のも世阿弥が大きく関与していることだろう。
奈良時代には北陸道の内の一つの国(佐渡国、別称:佐州,渡州)となり、徳川・江戸時代には幕府直轄となるなど、一般的に思い浮かべる離島のイメージとは歴史的にも文化的にも大きく様相を異にし、日本史を語る上でも重要な地である。
詰まる所、佐渡は、気候的(植物の北限と南限が重なっていて植物や果物の種類が豊富)、海洋的(暖流と寒流がぶつかるので魚種も豊富)、地形的(山あり海あり平野あり)、歴史的(多様な高名文化人が渡来)、文化的(鬼太鼓や能などの伝統芸能が豊富で盛ん)等々、あらゆる点で見てもまさに「日本の縮図」と言える。

佐渡島創生に興味がある方向け(佐渡ジオパーク発行パンフレット)
トキが舞う金銀の島 3億年の旅とひとの暮らし
自然とひとの暮らし

 

●吾潟の歴史年表
弥生時代     佐渡島の南部(長者ヶ平遺跡など)を中心に多くの縄文土器が見つかっており、海を渡って本土との交流もあったが、上図の通り加茂湖が形成されたのは弥生時代からであり、吾潟に住民が定着したのも弥生時代晩期かそれ以降?
※高台にある越戸や藤巻だけでなく、田ノ浦や品浦の山沿いは当時も陸地であったと推測され、隣集落の椎崎から縄文時代の遺跡が発見されてもおり、縄文時代から吾潟に人が住んでいた可能性は否定できない。
延暦11年 792 神社 潟上村に八王子大明神(後の牛尾神社)が出雲大社から大国主命などを勧請して創建された
文安2年 1445 潟上に湖鏡庵(こきょうあん)が創建される
天明3年 1783 行政 この頃の吾潟は、潟上村下組に属し越戸苗代沢品浦の3組で構成されていて、藤巻住民は越戸と品浦に含まれていて藤巻の開発は他の3組よりも遅かったようである。
不明   行政 吾潟集落で藤巻を独立した地域(組)として4組制とする
不明 神社 伊豆神社創設
寛延48年? 1796? 芸能 吾潟鬼太鼓結成
文久3年? 1863? 芸能 牛尾神社の能舞台で初演能
現在も牛尾神社例祭前夜祭(6月12日)にて定例薪能が上演(観覧無料)
明治6年 1873 神社 八王子大明を潟上神社(後の牛尾神社)と改める
明治7年 1874 神社 潟上神社を牛尾神社と改称
明治13年 1880 行政 潟上村下組が潟上村から分離独立し新潟県加茂郡吾潟村と改名
※潟上下組が上組と統合するよう指示が出て、下組(吾潟集落)がこれに反発し独立が認められた
明治14年 1881 行政 潟上小学校吾潟分場開設。年貢米倉庫の郷蔵を校舎とした
明治18年 1885 芸能 本間家個人宅敷地内に能舞台(県の有形民俗文化財)新築落成
明治19年 1886 行政 火災にて吾潟校舎が全焼
校舎が新築されるまで、藤堂を仮校舎とした
同上   行政 加茂湖埋め立ての許可がおり吾潟周辺にて加茂湖の埋め立てが始まる
明治25年 1892 行政 潟上小学校吾潟分場吾潟村立吾潟尋常小学校として独立。就業年限は3年
明治30年 1897 行政 吾潟尋常小学校での就業年限が4年になる
明治32年 1899 神社 牛尾神社焼失。大杉は「神の木」故に火災から免れた
明治34年- 1901 神社 牛尾神社再建が始まる
同上   神社 牛尾神社の能舞台再建
同上   行政 町村合併により吾潟村・明治村・河崎村・富岡村が合併し河崎村となる
これにより吾潟集落は
河崎村大字吾潟となる
明治35年 1902 行政 町村合併に伴い吾潟尋常小学校久知尋常小学校(後の河崎小学校)吾潟分教室となる
同上 神社 牛尾神社拝殿の彫刻群が完成
明治37年 1904 行政 両津湾と加茂湖をふさぐ陸地を開削(両津らんかん橋を新設)し、加茂湖が淡水湖から汽水湖となる
明治39年 1906 行政 吾潟尋常小学校として独立
明治45年 1912 神社 牛尾神社の社殿等が再建。改築工事がすべてが完了
大正10年 1921 活動 吾潟婦人会結成
大正12年 1923 行政 椎崎回りの県道南線が新道として開通
大正17年 1928 観光 加茂湖日本百景に選出
昭和7年 1932 産業 湊地区にて垂下式牡蠣養殖に成功
昭和8年 1933 行政 吾潟尋常小学校が久知尋常高等小学校吾潟分教場に改名
昭和10年 1935 活動 吾潟消防団結成
昭和12年 1937 生活 越戸に電灯がつく。3年後にその他の地域でも電灯がついた
昭和14年 1939 産業 吾潟で牡蠣養殖始まる
昭和20年 1945 -- 太平洋戦争が終結。吾潟では11名が戦死
昭和25年 1950 行政 吾潟公民館開設
昭和27年 1952 産業 加茂湖埋め立て地で行われた学田が戦後の農地改革により農水省に強制譲渡となり、65年も続いた『越湖埋立同盟会』による学田事業は解散した
同上   行政 吾潟幼稚園が季節限定(4月15日~11月14)で旧公民館を使用して開園
昭和28年 1953 行政 吾潟尋常小学校が現公民館の場所に新築落成
昭和30年 1955 行政 吾潟幼稚園を藤堂敷地内に新築着工(完成は翌年)
同上   産業 「加茂湖漁業組合」が発足
昭和34年 1959 生活 吾潟でテレビ視聴が始まる
同上   活動 公民館事業として敬老会を始める
昭和35年 1960 行政 旧両津市立両津中学校の一部と両津市立河崎中学校が統合して佐渡市立東中学校が開校
昭和39年 1964 活動 吾潟鬼組保存会結成
同上   生活 吾潟で電話工事が始まり、完了するのに3年を要す
昭和40年 1965 活動 老人クラブ設置
昭和43年 1969 行政 吾潟幼稚園が完全通制となる
昭和44年 1969 行政 河崎小学校吾潟分教場閉鎖し両津小学校区に併合
昭和46年 1971 神社 本間家能舞台が両津市文化財に指定
昭和53年 1978 生活 吾潟の上下水道設置が完了
同上 行政 吾潟幼稚園を閉園し、湊保育園と合併
昭和56年 1981 神社 牛尾神社能面県指定文化財に指定
平成9年 1997 神社 本間家能舞台牛尾神社能舞台新潟県指定有形民俗文化財に指定
平成10年 1998 神社 伊豆神社能舞台崩壊
平成15年 2003 活動 吾潟白藤会発足
平成16年 2004 行政 佐渡島内の全市町村が合併し佐渡市吾潟となり現在にいたる
同上   神社 牛尾神社拝殿彫刻,木造薬師如来座像, 木造聖徳太子立像, 龍神, 奉納受領文書, 安産杉市指定文化財に指定
平成17年? 2005 観光 「道の駅」が開設(登録は1999年)
平成19年 2007 産業 佐渡市が「朱鷺米」こと「朱鷺と暮らす郷」の認証制度を立ち上げる
平成21年 2009 観光 「道の駅」が実質(トイレ等を除き)閉鎖
平成23年 2011 遺産 トキと共生する佐渡の里山(佐渡市全域)」として日本で初めて「世界農業遺産」に認定
平成25年 2013 遺産 佐渡ジオパーク(佐渡市全域)」が日本ジオパークに認定
同上   行政 佐渡市立東中学校閉校し、両津中学校に統合
不明   観光 加茂湖を一周するサイクリングロードが開通
令和4年 2022 芸能 吾潟音頭創作

●吾潟に残る遺跡・史跡  
右の地図は「両津市詩」に記されている吾潟の地図である。名称や位置などを見ると現代版の様であるがGoogleマップには記載されていない旧街道名も記載されており、吾潟の歴史を紐解くヒントになる。
さてここで吾潟集落の方に問題です。左の図には、間違いor今と違うところが何か所かあります。それはどこでしょうか?

吾潟地層
潟から発見された地層。3万年前と推定される。
次の表は、日本海誕生以降に島内で発見された地層の名称である。 
    金丸層 金井 1万年前  
    吾潟層 両津 3万年前  
    潟端層 両津 10万年前  
    赤坂層 金井 12万年前  
    質場層   80万年前  
    貝立層   120万年前  
    河内層   260万年前  
    野坂層   420万年前 中山層上部を分離
    中山層 佐和田 1230万年前  
    羽二生川層   1670万年前 下戸層上部を分離
    鶴子層     現在は区分を廃止
    下戸層 相川 1700万年前  

越戸遺跡
「埋蔵文化財包蔵調査カード(No.1418-60)」より
場所:越戸中心部にある三叉路南方脇下
出土品:須恵器(盤)(窯で焼いた皿のような形状の土器製の器)
年代:平安時代
所蔵:右ェ門(現在は所蔵していない)

吾潟鳥羽殿塚
「埋蔵文化財包蔵調査カード(No.96)」より
場所:加茂湖東岸にせまる段丘面上、標高約20m
   「北一輝の墓」がある「勝広寺青山墓地」の加茂湖側松林
年代:中世(南北朝~室町時代:1336~1573年)
形態:直径約4mx高さ約1.4mの円形柱(塚)が3基
   道路側の1基は半壊で、他2基は原型を留める
   1号基:南東、2号基:北西、3号基:道側(半壊)
設置の目的・用途および名称の由来は不明。「鳥羽」という名称は百姓集落の吾潟には元来無縁。「順徳上皇」ゆかりの地は島内各地にたくさん残っていて、父帝・後鳥羽上皇につながるのか?順徳上皇は流刑後佐渡の地にて後鳥羽上皇の崩御を知った筈。ただし、順徳上皇の佐渡在住期間は1221~1243年であり、本遺跡年代と重ならない。
(AIによる概要)佐渡にある鳥羽殿塚は、承久の乱で佐渡に流された順徳上皇の火葬塚と伝えられています。
(市誌)修験の場だったのではないか

殿様道
「吾潟鳥羽殿塚」から「塩街道」につながる道で吾潟と住吉の境界線と一致(?)。「鳥羽殿塚」から発しており、位置的にも「殿」つながりでも「吾潟鳥羽殿塚」に関係していると推測される。これを先に進べば新穂に抜け新穂銀山の脇を通り、さらには「真野御陵(順徳天皇火葬塚)」までつながる。現在では各集落を結ぶ幹線道路が整備されており気が付かないが、車では通れない細い道が今でも残っている。
さらには越戸の南端方にも越戸住民が「殿様道」と呼んでいる古い細い道の跡が残っているらしい。「鳥羽殿塚」からの「殿様道」幹線から加茂湖に抜ける道があってもおかしくはない。県道南線を下れば「新穂銀山の積出港」がある訳だから。
著名人とて数回の往来では名がつかぬ。お偉い何様が定期的に往来したか、末代に残るような大きな出来事があったか。
※順徳上皇は天皇家であり殿様と言う名称はそぐわない?あるいは「新穂城」または佐渡奉行と関係するのか?
(AIによる概要)江戸時代、佐渡奉行が島内を巡検する際に通った道であったことから、住民が畏敬の念を込めて「殿様道」と呼んだとされています。
(吾潟郷土史)久知地頭が椎崎へ漁に出かけるために通った・・・少し無理があるか?久知から椎崎に行くならば、両津湾沿いを通れば良いだろう。

塩街道
 

薬研坂道
 

北一輝の墓
北一輝:戦前の日本の思想家、社会運動家、国家社会主義者。本名は北輝次郎。両津湊の裕福な酒造業・北慶太郎と妻リクの長男として生まれ、二・二六事件で逮捕され死刑に処された。
吾潟集落の北端近く越戸から原黒に向かう道の沿道「勝広寺青山墓地」の一角に墓がある。

吾潟小学校
&
学田
明治5年に学制が頒布されるまでは、日本全国において子供達の教育には積極的ではなかった。明治6年に潟上小学校が開校となるも距離的にも遠いために吾潟の子供達がそこに通う事はなかっただろう。明治13年(1880年)、潟上小学校吾潟分場(現小松石屋敷地内)が建設され、翌年に開校した。ここから吾潟小学校の歴史が始まる。吾潟での子供教育の始まりと言っても良い。
全校生徒数は概ね30~50数名で推移する。就業年限が3~4年なのでこれを6年制に換算すれば100名近くになり、2024年の両津小学校の全校生徒数は93名であり、これとほぼ同等数の学童規模であったのである。
その後吾潟村が潟上村から独立するが、小学校はそのまま。明治19年(1886)に校舎が火災で全焼した。新築されるまでの間は藤堂が仮校舎となった。これを契機にして、吾潟村立小学校の運営費を確保するために、本間家が中心となり『越湖埋立同盟会』を結成し、加茂湖を埋め立て約3町歩の学田開発が行われた。
明治25年(1892年)に、吾潟村立吾潟尋常小学校(当初の就業年限は3年、明治30年には4年制となる)として独立を果たす。学田での稲作収益で学校運営費のすべてを賄うことができた。
明治34年(1901年)の町村制施行に伴い、吾潟村は明治村, 富岡村と共に河崎村に吸収合併された。これに伴い、明治35年(1902)に吾潟尋常小学校は久知尋常小学校(後の河崎小学校)吾潟分教室となった。
そして明治39年(1906年)には再び吾潟尋常小学校として独立するのだが、この際にも学田を売却して河崎村に千円の寄付をしてこれを成し得た。
何ゆえか昭和8年(1933)に吾潟尋常小学校は再び久知尋常高等小学校(現河崎小学校)吾潟分教場(通称:吾潟分校)となった。昭和28年には現公民館の場所に新築落成。この頃には学田事業は解散していたので、新築費用の捻出は大変だったであろう。
昭和44年(1969)に両津小学校区に併合され、ここに88年に及ぶ吾潟小学校の歴史は幕を閉じることとなる。この間に、吾潟の子供たちの教育に尽力された本間家や学田に従事された地元民父兄の方々に感謝である。
※これを執筆しながら思い出した。吾潟小学校には立派な校門、体育館、給食室、職員室そして2階建て教室があり、外にはグラウンドもあった。当時は広いように感じたが、今の跡地を見ると猫の額の広さしかない。また先生が「明日の給食はカレーライスだから各自米1合を持ってくるように」と言われた。そして5年生になると、本校(河崎小学校)までの約3kmを雨の日も雪の日も歩いて通った。昔の子供達は皆元気で丈夫だった。
雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ 丈夫なからだを持ち 欲は無く 決して瞋(い)からず(怒らず) 何時も静かに笑っている(宮澤賢治)・・・吾潟の子供達の事よ
学田学校の経費に充てるために所有する田地であり、佐渡島内でもこれを有するのは吾潟のみ。吾潟小学校の運営を維持する上で、最も重要な役割を果たした。全国的にみても北海道の一部に存在するもののなかなか珍しい試みである。北海道での学田開拓が1884年、吾潟で学田用に加茂湖埋立が開始されたのは1886年。『越湖埋立同盟会』設立や許可申請はもっと前の事だろうから、北海道と同時期またはその前に先行した計画だった。もしかしたら日本全国でも初の試みだったかもしれない。

               吾潟分校(吾潟郷土史より)

吾潟幼稚園
吾潟幼稚園は、県道南線「吾潟藤堂前」バス停前の吾潟観音堂の手前、吾潟小学校と並んで建てられた。

吾潟観音堂
 

吾潟藤堂
 

越戸の堂
「喜左衛門堂」とも呼ばれた。現在の越戸の堂は、場所も移動して新しく建てられたものであり、かつては県道から上がった道と住吉および原黒に抜ける三叉路(越戸中心部)にあった。その頃は、道路に大きな幕を張って映画を上映していた。
 
●加茂湖伝説
加茂湖伝説① 加茂湖の主(佐渡の民話・第一集)
昔、佐渡の加茂村に武右衛門(ぶえもん)という長者が住んでおりました。この武右衛門は大変強欲で情け容赦のない冷たい男でした。武右衛門は、一刻も早く加茂湖埋め立てて土地を増やし、佐渡一番の長者になりたいと野心を抱いておりました。 しばらくして始まった加茂湖の埋め立て工事に、漁師達は止めてくれるよう必死に懇願しました。ついに堪忍袋の緒がきれた漁師の茂平は、武右衛門を奉行所に訴えでましたが、お奉行に根回ししていた武右衛門の手によって、逆に土地を永久に追い出されてしまいました。 そのお裁きのあった満月の晩のことです。秋津村(あきつむら)を通りがかった武右衛門とお伴の長兵衛は、長江川のそばで一人の娘が立っているのに気づきました。声をかけると釜屋村(かまやむら)の家に帰るところだと言います。娘の美しさに下心を出した武右衛門は、送ってやると申し出て、長兵衛の提灯をふんだくり、娘の肩を抱き寄せながら行ってしまいました。 仕方なく長兵衛が一人で帰っていると、背後から青白い顔をしたお奉行が声をかけてきました。「あの娘は、生(しょう)のある者ではない」と長兵衛に告げて死んでしまいました。長兵衛は驚いて、武右衛門の後を追いかけましたが、そこで見たのは娘が武右衛門の生き血を吸っているところでした。驚く長兵衛の目の前で、二人はいつのまにか姿を消してしまいました。 長兵衛があわてて二人を探すと、不思議な事に二人は加茂湖で水面に立って踊っていました。その異様で恐ろしい様子に、長兵衛は叫び声をあげて村に逃げ帰りました。知らせを聞いた村人や漁師たちがをあちこち探すと、明け方ごろ武右衛門の遺体が加茂湖の底から浮き上がってきたのでした。 村人達は加茂湖の主の恐ろしい仕返しに震え上がったということです。
加茂湖伝説② 一目入道(ウィキペディア)
一目入道は加茂湖の主であり、頭上に一つ目を持つ。ある日、一目入道がから上がってみると、1頭の馬が繋がれていた。入道は好奇心から馬に跨り、遊び始めた。 そこへ馬主がやって来て、入道は捕らわれてしまった。陸上では入道も手も足も出ず「ご勘弁下さい。その代わりにこれから毎晩、瑠璃の鉤で一貫の鮮魚を捕らえて献上します。但し魚を採るのに必要なので、鉤だけはお返し下さい」と言った。馬主は面白がって約束を受け入れ、入道を放した。 翌朝に馬主がへ行ってみると、約束通り取れたての魚が鉤に掛けられていた。馬主は喜び、入道が言った通り鉤をへ返し、魚を持ち帰った。こうしたことが何年も続いた。 ある日、馬主は悪い考えを起こし、約束を破って鉤を返さずに持ち帰った。すると入道は魚を貢がず、それどころか毎年正月15日に馬主の家を襲うようになった。馬主は一晩中念仏を唱え、危機を免れようとした。こうして入道の祟りが無くなった頃、馬主は観音堂を建て、本尊の白毫(びゃくごう。仏の眉間にあって光を放つという白い毛)に入道の鉤をはめた[
加茂湖伝説③ 石楠花(まんが日本昔ばなし)
佐渡の大倉村に、とても元気で可愛い娘が、木こりの両親と3人で暮らしていた。娘は、春から秋にかけて放牧している牛の世話係だったが、まだまだ遊びたい年頃だった。 そんな中、黒い子牛が産まれた。黒い子牛がすくすく育つのが嬉しくて、すっかり働き者になって牛の世話や両親の手伝いを嫌な顔せずやっていた。ひと冬を越したある日、母牛が病気で死んでしまった。これををきっかけに、娘はますます黒い子牛を大切に育てた。 それから2年目の夏、子牛は立派な若牛(黒毛の雄牛)に成長した。2本の角も立派に生えそろい、4本の脚もたくましく大地を蹴り、毛並みは黒々と艶やかに光っていた。娘は黒牛にまたがり、山の中を駆けまわって暮らしていた。 ある日の夜、娘は黒牛と一緒に、月夜がきれいな加茂湖を見に行った。帰り際、振り返った娘の目の前に、たくましい若者が立っていた。「私はあんたに育ててもらった黒牛だ。夏の月が加茂湖に映る間だけ、私は人間に姿になる事ができるんだ。私はあんたが好きだ。」 その日から娘は、毎夜毎夜、加茂湖の見える月夜の晩に、若者(黒牛)と会うようになった。娘にとって初めての激しい恋だった。 その年の冬、立派に育った黒牛を両親は売ることにしたが、娘は反対した。そこで娘が寝ている間の早朝に、こっそり牛を売りに出すため連れて行った。気づいて娘は追いかけたが、のがけ下で、口から真っ赤な血を流して死んでしまった。 翌年の春、娘が死んでいた大倉峠に一本の木(石楠花)が生えてきた。
加茂湖伝説④ 牛尾神社「翁の面」(新潟文化物語)
室町時代の名匠・春日の作と伝えられる宝物「翁の面」。その昔、日照り続きで苦しむ農民たちが、加茂湖の上に舞台を組んで雨乞いの能楽を催し、宗家・本間右京太夫(ほんまうきょうたいふ)がこの面を付けて舞ったところ、突然豪雨となり、龍神が現れたといいます。龍神に翁の面を奪い取られそうになった右京太夫は素早く牛尾神社境内に駆け上がり、鳥居の内側に面を投げ込んだため、翁の面は守られたものの、その時に付いたという傷が翁の面に今も残っています。
加茂湖伝説⑤ 加茂湖の竜
加茂湖伝説⑥ 加茂湖の湖底城
加茂湖伝説⑦ (延命院語り)

●文化12年(江戸時代1815年)の吾潟5人組

市誌に記載のある当時の吾潟集落5人組構成。数え上げれば全部で23組95家になる。この時には藤巻地域が既に吾潟に含まれていることが分かる。
どうでも良い情報だが、各家の昔の旧屋号が記されていて面白い。現在も5人組制度は続いているが、諸般の事情にて5人組構成は変わっている。
()内は現屋号 ※現屋号についてはやや不安が残る。誤りがあれがご連絡を賜りたく。
※5人組:江戸幕府が民衆を統制するために設けた組織で、近隣5戸を一組として年貢の納入や犯罪防止などについて連帯責任を負わせた相互監視を強いる制度であり、元来、日本人の気質にそぐわない制度であった。現在では相互監視義務は解かれ、葬儀の時には準親戚の立場になって当家を手伝う。
・[4] 小七(藤右衛門)、甚右衛門、源蔵、村右衛門
・[4] 宇右衛門、新五郎(新次郎→新兵衛→新平)、孫右衛門(孫次郎)、与右衛門
・[3] 孫兵衛、次郎助(治右衛門)、新兵衛(新左衛門)
・[5] 五左衛門、喜左衛門(現市橋重次郎)、与兵衛(藤三郎)、伊三郎、左兵衛(平蔵→平吉)
・[4] 清左衛門、孫左衛門、与七郎、茂右衛門(茂助)
・[5] 半左衛門、小左衛門、彦三郎、三左衛門、源五郎
・[4] 甚八郎、太左衛門、六蔵、喜三郎(太三郎)
・[4] 半五郎(権次右衛門→権右衛門)、権十郎、万四郎、五吉(式部)
・[2] 延命院、与市(与一)
・[5] 七右ェ門、甚十郎(甚五郎)、三郎左ェ門(三四郎)、新太郎(文四朗)、嘉兵衛
・[4] 多郎兵衛、惣次郎、勝次郎(太十郎)
・[6] 仙次郎(市右衛門)、甚左衛門、専右衛門、源太郎、文右衛門、庄吉
・[5] 杢左衛門、伊右衛門、利右衛門、武左衛門、庄次郎
・[4] 右京(梅ヶ沢)、甚七郎(五右衛門)、三助(儀左衛門)、万右衛門
・[4] 忠右衛門、六左衛門、佐市郎、忠八(忠兵衛)
・[2] 紋平(惣三郎)、辻松(伝三朗)
・[5] 紋太郎、三次郎(三右衛門)、権三郎(松右衛門)、太兵衛(太六)、権四郎
・[4] 喜市郎(久七)、九郎次郎(九右衛門)、喜作、宗吉
・[4] 福正院(福右衛門)、庄五郎(庄三郎)、五兵衛(五郎助)、儀兵衛(儀右衛門)
・[5] 長四郎、長左衛門(長兵衛)、半兵衛、甚四郎、七兵衛
・[6] 佐次兵衛、弥助、権兵衛、源次郎、弥左衛門(政右衛門)、定右衛門
・[3] 伊助、文次郎、与八郎(与助)
・[3] 長右衛門、作平、文助
(市詩)天正17年(1589年)に潟上地頭帰本斎が上杉幕下として佐渡を去る時、家臣の中で主なる18人が佐渡に殿原百姓として帰農したとある。その中で吾潟の人と思われるものは、本間杢(杢左衛門)、後藤縫乃助(武左衛門)、熊谷孫左衛門(南河内)、菊池半左衛門(河内)、菊池小平太(小左衛門)、川原惣右衛門(惣三郎)、北見清左衛門(坂)、熊谷藤右衛門(藤右衛門)、菊池雅楽之助(式部)の9人である。


T O P 吾潟の歴史 吾潟の自然 吾潟の芸能/社寺 吾潟の産業 お問い合わせ
当サイトの文章・画像・動画等を他のサイトにて無断で使用される事を固く禁じます
Copyright(C) AGATA, SADO, Niigata, Stereo Workshop PONY All Rights Reserved Since 2025